ガラケーも使えなかったばあちゃんが、教えてくれること

 

祖母が他界してはや2年。

 

2年と聞けば短くも感じるが、恥ずかしいことに人に言われるまで別れが何年前のことだったか、忘れていた。

 

 

祖母に思い入れがないワケじゃない。

 

むしろ逆だ。

 

おばあちゃん子で育った僕にとって、祖母は大切な大切な肉親。

誰の葬式でも泣かずに生きてきた僕を唯一、涙させた張本人である。

 

だからこそ、その最期をいまでも昨日のように感じるし、365日、あの人を想い出す。

亡くなってなお魂に刻み込まれている人間だからこそ、命日をあやふやに感じるのだろう。

 

 

祖母は老人よろしく「新しい物」が苦手だった。

いや、老人と呼ぶには若い60代の頃から、目新しいものを取り入れていなかったようにも思える。

 

洗濯機は使いに使い古したダイヤル式。水は井戸で汲んでいた。

壊れかけのボイラーで風呂を焚き、冬は燃費の悪い石油ストーブに火を付ける。

掃除機なんてものはなく、ホウキと雑巾で掃除をする。

 

傍らやっていた農業に関してはさらに殺風景を極め、春夏秋冬すべての収穫を手作業で行っていた。

 

 

「時間を止める魔法」がかった家屋。

 

祖父と自分のぶんまで家事はある。

言ってしまえばあるあるな田舎の風景かもしれないが、「時短」を取り入れない祖母はいつも生活に追われていた。

 

祖母は、とても充実した日々を送っていたように懐う。

 

かじりかけの不便

 

いつからか土鍋で米を炊くようになった。

ブームに乗って買ったのがきっかけだったように思うが、今では慣れたものだ。

 

次いで先日、電子レンジが壊れた。

 

たった2つ。

これだけの事だが、以前に比べ少しだけ不便な生活に足を踏み入れている。

 

「買い換えればいいじゃないか」

その通りだし、決して買えないワケでもない。

 

だが、いま感じているのは「なければないで何とでも」である。

ミニマリズムを気取るつもりはないが、なんとなく必要性を感じないのだ。

 

 

なくしたのは必須とも言えない2つの家電。

しかしそれでも、やはりこれまでの「便利」を再実感している。

 

「その程度で不便とは」と、

ちょっと家電が壊れたくらいで不便を語られるのは癪かもしれない。

 

実際、口で言うほど僕も「不自由だな」と感じているワケでもない。

あくまでこれまでの生活に比べたらであって、世間一般の不便とはほど遠いだろう。

 

だからこそ無くてもなんとかなるレベルだし、必要でも買えない人からすれば、不便を楽しむなんて一種の道楽だと不快かもしれない。

 

ただ、今、便利から遠ざかってふと思ったことがある。

 

増えた生活の時間

 

レンジも炊飯器も、洗濯機もない生活をしてる人はごまんといる。

 

実際、自分もある年齢まではそうだった。

繰り言だが、なくても大丈夫なのだ。

 

しかし、いちど手にした時短を手放してみると、思いのほか時間をかけていた事に気づく。

 

口にしている雑穀米や麦飯を土鍋で炊くには、相当な浸水時間が必要。

そのため、逆算して数時間前に米を研ぐのが習慣になった。

 

レンジで済ませていた食材の処理には、すべて火を使う。

買ってきた惣菜を温めることもできない。

 

今ではこの程度で済んでいるが、

もし洗濯機が壊れたら?

もし冷蔵庫がなかったら?

もしガスコンロが使えなかったら?

 

そんな妄想の果てに懐い出したのは、ありし日の祖母の姿だった。

 

生きる活動

 

僕の中の祖母は、いつも家のことをやっていた。

 

朝は掃除をこなし、飯を炊き、洗濯を干す。

ひととおり済めば農作業に出て、あっという間に昼食をこさえる。

遠くのスーパーに自転車で買い出しへ行き、洗濯物をたたみ、合間に小用を済ませ、晩ご飯の支度をする。

風呂を沸かし、その後で洗い物を片付け、すべてが終わる頃には寝室が近い。

 

 

勘違いしてほしくないが、女性が家事に追われることを推奨しているワケじゃない。

前時代的で、文章にしてみれば奴隷のような生き方という意見もあるだろう。

 

 

ただ、少なくとも僕の目に映っていた祖母は、とても充実していたように思えてならない。

 

祖母の日常は、文字通り「生活」で満ちていた。

家の手入れをし、食事を摂り、風呂を焚き、眠る。「生きる活動」だ。

 

膨大な生活に追われるながら、なぜ祖母は、あんなにも穏やかに笑っていたのか。

思い返したとき、いま感じている不便の片鱗に、ヒントがあるような気がした。

 

便利が生み出す空虚

 

現代は利便の最先端にある。

 

ほこりはロボット掃除機が吸い上げ、洗濯機は乾燥までこなし、氷でさえ冷蔵庫が勝手に生み出す。

便利への渇望はとどまる所を知らず、今ではワンクリックで食事が届き、声ひとつで家電を操作できる。

 

繰り言だが、決してこの記事で誰かに批難を浴びせたいワケでもなければ、否定するつもりもない。

むしろ便利になったことによる恩恵は大きく、これからも発展して然るべきだと考えている。

 

 

ただ同時に、便利が奪ったものも確実にある。

 

 

自由度の増した社会から、我々は「時間」を得た。

生きる活動を時短していった結果、生命維持のために必要な動きは、従来の半分以下かもしれない。

 

空いた時間の使い方は、各個人に委ねられている。

それが今の世界である。

 

圧縮された生活のかわりに、

ある者は外に働きに出、

ある者はネットに興じ、

ある者は創作活動をはじめた。

 

それは世にとって個人にとって良い側面の方が大きいだろう。

したくもない家事に追われるより、合った環境を選択できるようになったのだから。

 

 

だけど、一定数の人間にとって、利便は毒となっている。

そういう側面も確実にある。

 

 

わかりやすく言えば「ヒマを持て余す人間も増えただろう」ということだ。

 

 

家庭があり、まして子どもでもいれば、時間などいくらあっても足りないだろう。

 

しかし、労働もそれなりで経済的にも困窮しておらず、かといってやりたい事のない人間にとって、

生きるための労力がいらない状態というのは、原始的な充足感を奪う要因になってはいないだろうか。

 

 

人間は動物である。

 

動物である以上、生きる目的は本来「生きること」だ。

 

仕事も恋愛も、おしゃれも遊びも、

根源をたどれば究極「心身ともに健康に生き、子孫を残すことに向けられた行動」だと言える。

 

ともすれば、誰もが手軽に充実感を得られる、もっとも原始的な方法は「生活」だ。

 

生きるために食事をとりにいき、生きるために快適な寝床をこさえる。

本能に則った活動は、確実に自分の「核」を満たしてくれる。

 

悩み事だって、「生きる」という本能を満たしたあとのこと。

「食べることに精一杯であれば悩むヒマも減る」というのはあらゆる著名人が発信する内容でもある。

 

 

そう。

 

便利さは自由と創造性を生み出した一方で、

「ヒマ」と「悩む時間」を我々に投下した。

 

 

人間のかわりに機械が生活を担うことにより、

僕たちは、別の「なにか」で充実感を獲得しなければならなくなった。

 

 

うつ病をはじめとした精神疾患患者は、年々増加傾向にある。

平成8年には43.3万人だったうつ病等の気分障害の総患者数は、平成20年には104.1万人と12年間で2.4倍に増加しました

【引用】https://www.mhlw.go.jp/seisaku/2010/07/03.html

 

もちろん労働環境の悪化や人間関係の複雑化など、背景は一枚岩ではない。

 

ただ、これは「生活」を圧縮され、本能的な充実を取り上げられた弊害ではないか、とも思う。

 

 

「メシ食ってクソして寝るだけの生活」

それが人間らしさの失墜となるかはわからないし、良いことだとも思えない。

 

しかし、メシ食ってクソして寝るだけの生活を、現代人は置き去りにしすぎていないだろうか。

 

おわり

 

現代は物があふれかえり、なにが自分に必須で、なにがいらないか、わからなくなっている。

インスタやツイッターでは今日も誰かがなにかをオススメし、それを皆が買い求める。

 

だけど面白いことに、こうして少し不便になった今のほうが、妙な充実感を見いだせそうな気がしている。

 

沢山の「オススメ」に囲まれ、原始的な自分を見失っていないか、自分に問いかける。

 

 

記憶のなかの祖母は、今日もせっせと生活をはじめる。

掃除をし、メシを炊き、洗濯をこなし、風呂を沸かす。

 

「ハイカラなもんばっかり、いらねえですよ」

 

いつか祖母が食洗機の営業に向けて言っていた言葉を、想い出した。

 

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