なぜ、憎むほどに愛するのか

人の縁なんて不思議なもので、昨日まで味方だった相手が今日は敵なんてことがザラにある。

逆パターンは経験したことがないので、人は本来憎しみ合うようにできているのではと疑いたくなるほどだが。

 

愛憎劇なんてその最たる例だ。「愛憎」という言葉の通りに、愛と憎しみはそれでセットなのだろう。

友だちに言われたことがある。「好きはいつか憎しみに変わりやすいから」それを聞いたとき、妙に納得してしまったことを覚えている。私はそのことを、きっとずいぶん前から知っていたから。

両親は私が中学に上がる前には離婚している。離婚前は当然、見るに耐えない家庭状態だった。

母も父も毎晩のように喧嘩をし、ときには子どもの前で暴力さえ飛び出した。親だって人間なのだから、べつに喧嘩をどうこう思わなかった。

けれど、そんなふたりでさえ、愛し合った時間はあるのだ。両親のなれ初めなんてメタルくらい聞きたくないから知らないが、私が行きずりにできた子どもで、責任のために結婚をしていたとしても、その夜だけでもふたりは確実に意気投合し、体を重ねたのだ。

一瞬だとしても、「仲睦まじいふたり」は存在し、そのふたりは数十年後、醤油さしを投げ合うほどに憎しみ合う。そう思うとなんだか滑稽だ。

滑稽だけど、自分だってそうなのだ。いつか深く愛した相手も、時間とともに憎しみに変えてしまうこともある。あるいは、どうでも良くなるか。

「愛憎」という言葉がセットなのだとしたら、憎いと思ううちは、まだ愛してるのかもしれない。そう考えたら「憎いです」と思う私の心は、まだあの人を愛しているのかもしれない。滑稽である。

 

裁判所で争う男女も、SNSで愚痴をこぼす夫婦も、確実に愛し合っていた。

ドライヤーで相手の髪を愛おしそうに乾かす。そんな時間があったハズだ。

「愛した人を憎まない」とかそんな崇高なことは言えないが、少なくとも、愛と憎しみは紙一重で、そういうふたりが、世の中にはたくさんいる。

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