ひとりぼっちのクリスマス

 

20年以上前の「12月25日」

僕は眠い目をこすり、終日シフトが入っているバイト先のガソリンスタンドへ向かっていた。

 

当時の彼女と逢おうともしなかったくらい、僕はこのイベントにたいした思い入れがない。

1225という数字に意味が生まれ、僕の中で特別なものになったとしたなら、この日の出来事がきっかけなのだろう。

 

 

 

「笠原さんの奥さんとお子さん、昨日亡くなったよ」

 

普段うっとうしいくらいにテンションの高い荻野先輩が、そう言いながら新聞を渡してきた。

 

 

大きな一面の見出しにはこう書かれている。

 

「聖夜の悲劇 親子三人焼死|祖母が放火」

 

 

その下に並ぶ、ふたりの子どもの写真。

 

 

僕は最初、それを先輩の悪質なイタズラだと思った。

新聞は本物のように見えるが、意味がわからず、脳が事実として認識してくれなかったのだ。

 

 

 

だって、僕はつい12時間前まで、この子たちと遊んでいたのだから。

 

 

 

 

「笠原さん」はバイト先の先輩だった。

 

40歳を過ぎるわりに若々しい顔立ち。すらりとした体型。

穏やかで面倒見が良く、当時の僕にとってはかっこいい大人の代表みたいな存在。

 

 

事情はわからないが、笠原さんが閉店後にふたりの子どもを店に連れてくることがあった。

 

年長の猛くんと、小学生の光ちゃんだ。

 

 

僕はなぜか子どもにロックオンされる性質をもっている。

猛くんと光ちゃんも例に漏れず、僕を気に入ってくれたようだった。

 

閉店後の店内でかくれんぼをしたり、ゲームをしたり。

締め作業の間、僕はガソリンスタンドの店員ではなく、「近所のお兄さん」を仕事にした。

 

 

白々しいほどに、礼儀正しく、イヤミのない子たちだった。

 

光ちゃんは年齢相応のかわいらしさを持ちながらも、しっかりお姉ちゃんにもなる。

猛くんもお姉ちゃんを見習い、5歳にしてすでにクソガキではなくなっている。

 

喧嘩もせず仲良しで、聞き分けも良い。

怖いくらいに。

 

もちろんそればかりではないのだろう。

しかし、少なくとも良い部分しか見ない近所のお兄さんにとっては、とにかく可愛い子供達だった。

 

 

24日の夜、例によってふたりは閉店後の店内で、笠原さんの仕事が終わるのを待つ。

 

「思い入れもないイベント」とは言ったものの、ふたりが喜ぶのなら。

そんなスケベ心から、僕はささいなお菓子の詰め合わせをプレゼントした。

 

3人で仲良くお菓子を食べ、期待通りの満足感を得る。

笠原さんは「お前もたまには気が利くんだな」と軽口を叩きながらも、嬉しそうにそれを眺めている。

 

いつものようにふたりと遊び、いつものように家に帰り、またいつものように出勤した。

 

 

そこで渡された新聞には、昨日まで笑っていたふたりの写真が並んでいるのだ。

 

 

 

「死ぬ」という単語の意味が、一瞬わからなくなった。

 

「昨日帰ったあとってこと?え?じゃあ今日はふたりとも来ないんかな、明日は?」

 

本当にそのくらい、起きている現実を全く認識できなかったのだ。

 

 

「明日、お通夜に行くぞ」

 

先輩にそう言われる頃、僕の思考はもう停止していたように思う。

 

 

喜ぶべきことか、僕は「老人以外の身近な人が死ぬ」という体験は、そのときがはじめてだった。

だから当たり前にふたりは小学校を卒業し、中学生になり、やがて大人になっていくものだと信じていた。

 

「信じていた」というより、「死ぬ」という可能性だけは1ミリも考えたことがなかった、と言うべきか。

 

 

当然、日本や世界のどこかで「そういう事」が日常的に起きていることは知っていた。

けれど、あの瞬間に「知っている」は「実感」へと昇華したのだ。

 

 

翌日、喪服に袖を通し、通夜の会場についた頃、僕はようやくこれがドッキリではないことを確信していた。

 

 

 

 

会場での笠原さんは、見ていられたものではなかった。

 

憔悴し、視点は定まらず、僕よりもなにが起きているのか分からないような表情で、機械的に弔問客にお辞儀をする。

ときおり現実を直視しようとするのか、奇声をあげ、崩れ落ちては泣いている。

 

「24日の夜に戻りたい」

こんな近所のお兄さんでさえそう思うほどなのだから、本人の心中は筆舌に尽くしがたいものだろう。

 

奥さんと子ども2人を一晩で失った。

それも、祖母の凶行により。

 

そんな人の前に立つのは、正直怖かった。

 

どんな顔で、どんなコトバを言えばいいのか、わからなかった。

 

むしろ、僕が何を言おうと事実は変わらないということが、ただ怖かった。

 

 

僕の思考なんて意味もなく、システム的に笠原さんの前へ受付に向かう。

 

 

そのとき、笠原さんがぽつりと言った。

 

 

 

「ひとりぼっちになっちゃったよ」

 

 

 

僕と認識してのことだったのか、それとも誰でもいいから訴えたかったのか。

 

わからないが、僕には返す言葉が見当たらなかった。

頷くことも笑うことも、励ますことも泣くことも、できなかったのだ。

そのとき僕は、共有することのできない絶望を、ただ眺めていた。

 

 

それからすぐ、笠原さんはガソリンスタンドの仕事を辞めた。

僕もほどなくして別のバイトをはじめたから、笠原さんに会うことは以後なかった。

 

 

 

 

「人は誰しも、必ず死ぬ」

 

あの事件は、僕にその思想を強く植え付けたと思う。

 

老いも若きも、国も時代も関係ない。

死は理不尽に、そして唐突に訪れる。

 

「何を当たり前のことを」と感じるかもしれないが、僕はそれがたまらなく怖くなるときがある。

 

この出来事があってから、街がきらめくこのイベントは、「死」いついて考える恒例行事となった。

 

今日に限ったことじゃない。

いつだってどこだって、死は平等に僕たちの傍に在る。

僕にも、そしてあなたにも。

 

昨日話したスーパーの店員は、今日はもうこの世にいないかもしれない。

おもちゃ屋さんのレジをしていたお兄さんも、帰りに車に轢かれ、一生を終えてるかもしれない。

 

 

後から聞いた話によれば、火を付けた祖母は高齢で精神が壊れていたそうだ。

 

そんなの、自然災害としか言えない。

数多ある予測不能で理不尽な災害のすべてを防ぐことはできず、僕たちは常に保証のない明日を夢見ているのだ。

 

 

「だからこう生きよう」とか、そんな話じゃない。

 

ただ、そういう事実が、漫然とそこにある。

それだけの話。

 

 

 

今これを読んでいるあなたへ。

 

目の前の人に、普段言えてない、なにかを伝えてみてはどうだろうか。

 

「ありがとう」でも「ごめんね」でも「ばか」でもいい。

 

明日その人に、あなたの声が届くかは、わからない。

 

今日をそんな特別な日にしてみるのも、悪くないと思うのだけれど。

 

 

 

「ひとりぼっちになっちゃったよ」

 

鼓膜に録音された笠原さんの声が、今年も鈴の音の代わりに聞こえてくる。

 

メリークリスマス。

 

年に1度の今夜くらい、猛くんと光ちゃん、それに傍らにある死へ、祈りを捧げよう。

 

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