コロナ禍によって数年会えていなかった旧友に再会できた。
世の中がこんな事になるとは思っていなかったから、コロナ前からあまり会うことはなくなっていた。
しっかり集まるのは、実に4年ぶりだったらしい。
久方ぶりに会う懐かしい顔ぶれ。
ありがたいことに、皆いい歳の重ね方をしていた。
良い意味で幼さは消え、他人を敬い、気を遣い、心地よい空間を創り出す。
そんな「大人」になっていた。
早くに子が産まれ、ほとんど子離れし、趣味に没頭しているヤツ。
仕事にやりがいを見いだし、出世している男。
またこちらでは、女遊びが過ぎて離婚間近な友達。
様々な事情と人生があるが、それでもより一層の色濃い個性を放ち、それぞれ輝いているように思えたのだ。
精悍になった旧友たちを眺めているうち、ふと、脳内でこの頃感じることを言語化していた。
ぼくは近頃、「人生は孤独を受け入れていく旅なのだ」と理解しはじめている。
ここで言う「孤独」とは「精神的自立」のことだ。
「寂しさ」とはまた違う、確立された「個」である。
ひとりで完結できる、完成された生命体。
それを目指し、ヒトは日々を歩んでいるのではないか。
そう思えているのだ。
もちろん他人との縁は必要だし、社会性を失えば僕たちは壊れてしまう。
誰かを大切に想う気持ちはあるし、関わりがあることを嬉しくだって感じる。
それでも、自分が誰なのかは自分で決めなくちゃならない。
己を満たすための依存先は、やはり己でなくてはならない。
孤独を受け入れていくということは、誰かに寄りかかる弱さを克服していくことだ。
孤独を「寂しい人」と短絡的に考えていたのは、孤独になる強さがなく、怖かったからかもしれない。
今は想う。
精神的な自立を果たしているひとは、やはり美しい。
そして、自分で自分を満たせて、はじめて他者を深く愛せるとも思う。
「一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ」
エーリッヒ・フロム
「自分の孤独を自分できっちりできないような人には、他人を愛する資格はないと思う。一人で生きていくことができて初めて、人を抑圧することなく愛せるんだと考えている」
ピート・ハミル
極論だが、自分が満たされていれば、誰にでも愛を注げる。
自分で満たすことができなければ、特定の誰かに「愛」と称した重荷を預けることになる。
「真の孤独とは、ただひとりでいることではない。自らの真の自由と自己の尊厳を自覚し、それを楽しむ高度な生き方の一つである」
久保博正
孤独を受け入れ、孤独を愛し、孤独の中で磨いた自分を、誰かに差し出せたら…。
しかし難しいのが、「自我」というのは、他人との関わりを経ないことには確立されていかないという点だ。
僕たちは友と語り、誰かとぶつかり、上司と仕事をこなし、恋をしていく。
その流れの中にしか、自己の確立というのは存在しない。
思春期のクールぶった無頼とはワケが違う。
孤独を受け入れていくために出会う縁。
そう考えると、寂しくもあり、嬉しくも愛おしくもなる。
人生も中盤にさしかかってきた今、僕はどれだけの孤独を受け入れてこれただろうか。
少なくとも、大した成熟はできていないのだろう。
こんなにも、また、古い友人たちと酒を酌み交わしたいのだから。