「優しい」って言われたこと、ありますか?
きっとない人はいないと願いたいのですが、
ぼくもありがたいことに「優しいよね」って言われることが少なくありません。
ただ、それは大きな勘違い。
ぼくの優しさはすべて「自分のため」であり、
「自分を救うための手段」でしかありません。
もくじ
返せていないもの
冬にしては暖かかった早朝、ばあちゃんは静かに他界。
亡くなるその寸前まで、来客に「すみません」「お茶飲んでって」と声を絞り出すような、優しくて気遣いなばあちゃんでした。
小学生のうちに借金取りの相手をし、高校にあがる頃にはひとり暮らし。
生ゴミのような家庭に育った僕ですが、唯一、面倒を見てくれたのがばあちゃんでした。
孫がかわいかったんじゃない。
その優しさはだれに対しても平等で、
マザーテレサよろしく、自分が痛むくらいになにかを差し出すような人だった。
そんなばあちゃんに、ぼくはなにひとつ返すことができませんでした。
高校では半グレ。
会社員になっても実家には寄りつかず。
盆と正月に、儀式のように顔を出すばかり。
できたことといえば、亡くなる直前にやっと感謝を伝えたくらい。
その声は、きっともうマトモに聞こえてはいなかったのだろうと思います。
たくさんの恩を、たくさんの優しさを、容赦なく踏みにじって、
口にしてはいけない言葉を、加減もせずに彼女の心に突き立ててきました。
だからこそ、僕は他人に優しくしているのだと思うのです。
誰かがくれる「重さ」
こんなツイートをしました。
いくら子供に尽くしたって、ほとんどは親孝行なんてされないうちに死ぬ。優しさなんて返ってこない
でもその優しさは、自分の知らない誰かに届く
優しくされたひとは、他の誰かに優しくする
誰かに優しくされたとき、ワイは「このひとに優しさをくれた誰かがいる」って感じる
おっぱいもみたいです
— masa@おフランスケベ (@masa_aki0917) June 21, 2020
「誰かに優しくされたひとは、誰かに優しくできる」
「悲しみをしっている人は、誰かにやさしくできる」
「ツライ想いをした人ほど、だれかに優しくできる」
これってなんでなんだろうって考えたんですよね。
で、ふと自分を振り返ってみたとき、
それって「自責の念」なのかなって思ったんです。
ほとんどの人は、誰かにもらった優しさを、返せずにいます。
ほとんどの人は、大事にしたかった誰かを大切にできずに、ずっと抱えてます。
ほとんどの人は、誰かを傷つけた痛みをだきしめたまま、生きています。
その「返したかった優しさ」「償えなかった罪」
ひとの優しさの源って、これなのかなって感じるんですよね。
いつかと想っているうちにいなくなった親。
なにもできずに苦しませてしまったペット。
そんなつもりないのに、喧嘩別れした友達。
ホントは100もらったら120で返したい。
だけど叶わなかった。
あなたにも、きっと覚えがあるのではないでしょうか。
だからひとは、その自責の念を、だれかに優しくすることで償っている。
そうやって、自分のなかにある「誰かにもらった重い」に帳尻を合わせているのかなって。
「自分なんかが」って感じること
「優しい」という言葉の由来を知っていますか?
語源は、動詞「やす(痩す)」が形容詞化した語で、もとは、身もやせ細るほどに恥ずかしいという意味。万葉の時代から、人や世間に対して気恥ずかしい、肩身が狭いの意味で用いられていた。
平安時代になって、恥ずかしく思う気持ちから周囲の人に対して控えめにふるまうさまを優雅、優美であるとして評価するようになり、やがて、心づかいが細やかで思いやりがあるという意味へと変化していった。
【引用】由来・語源辞典
もとは「恥ずかしい」っていう意味。
恥ずかしいから、肩身が狭いから、周りの人に気を遣う。
もうひとつ。
「感謝」っていう言葉。
これは「謝りたいと感じる」って書きます。
「こんな私なのに申し訳ない」
「こんなオレでごめん」
そんな気持ちがあるから、
ひとは感謝し、ひとに優しくする。
そうすることでしか、自分を救えないから。
そうでもしてなければ、己がちっぽけに思えてならないから。
だから、ぼくに優しさを返してほしくない。
せっかく他人に押しつけた「罪」を、また背負ってしまうから。
「どうしてオレなんかが」って、感じてしまうから。
おわり
だから、僕はひとに優しいんじゃない。
自分がもらった「オレなんかに」を軽くするために、誰かにそれを配って歩いてる。
そうやって、「オレは悪くない」って慰めている。
「受け継がれる優しさ」「優しさの輪廻」
そんなふうに言えば聞こえはいいかもしれない。
事実、
だれかがくれた重いは、誰かに果たせなかった後悔は、
巡り巡って知らない誰かに届くのだと想う。
だれかに優しくされたとき、
「きっとこの人のなかには、返せていない願いがあるんだろう」と感じる。
そしてそれは、とても愛しいもの。
ぼくはまた、その見知らぬ相手に、謝りたいと感じる。
そのひとが返すべきだった優しさを、ぼくなんかが受け取っている。
それをまた、だれかに受け取ってもらわなくちゃ、押しつぶされそうで。