正直、子どもは好きじゃなかった。
嫌いでもないので、まあ「どっちでもいい」が正しいのだが、感情抜きにメリットデメリットで考えてみたら、やはりデメリットの方が多いだろうと思っていた。お金もかかるし、時間だってとられる。見た目に気を遣う余裕もなくなるし、パチンコも飲み会も行けなくなる。
とはいえ、それが浅はかな俗物的欲求なこともわかっていた。子どもがいれば得られる経験や愛情、忍耐強さや老後の話し相手など、メリットだって沢山ある。高級な料理や旅行や出世では決して得ることのできない何かが。きっと。
繁栄は本能に基づいたものではあるが、多くの子持ちに対し自分より高い経験値を持っていそうだと感じるのだから。それだけじゃない付加価値があるのだろう。
とはいえ、書いたように子どもに関してはどっちでも良かった。
生来受け身で過ごしてきたことが多いから、できたらできたでやっていくし、できなかったらまあ独身様を堪能しようと、そんな程度の心構え。
しかし、「子どもは2週目の人生を与えてくれる」と聞いてから、幾分か「子どもいたらな」と思うようになった。
頭の良いひとほど、人生に飽きるのが早いと言う。生きるのが上手だからこそ、たいていの事はやってみたら「ああこんなものか」となってしまうそうだ。
賢い人が今生に飽く年代がおよそ30~40代らしいが、自分も40前にしてだいぶ人生に飽きている感がある。
頭が良いワケではないし、海外で逮捕されてみたり、電車の運転士をしてみたり、経験していないことは山ほどある。でも、飽きたと感じるのだからまあ仕方ない。「自分の人生がつまらないのは自分のせい。行動が足りないから」と言われたらその通りだし、まあこのまま子なしでいたなら別の経験もしていこうかなとは思う。
とはいえ今のところ、この「2週目の人生」という言葉に惹かれている。
人生に飽きた人間が、子どもを通じて人生を追体験する。幼少期に感じたワクワクや学校の行事、地域のイベントやお祭りの胸騒ぎ。確かにこれらは、大人がひとりで楽しめるものでもないし、まして実行できるものでもない。
ランドセルを買ったとか、今日の給食はどうだとか、夏休みの宿題とか、そんな貴重な経験を、もういちどさせてくれるとしたなら、それは子ども以外にいない。
今さら言うが、僕はすでに自分の子どもを育てた経験がある。途中で妻から三行半を突きつけられたので、4歳くらいまで。
人でなしなことを言えば、当時はいわゆる育児を通じた忍耐強さや愛情などは身につかなかった。「できたから育てる」という、ただそれだけ。まあ、今になってどうやら娘への想いはあるのだが。
その頃から「自分は人として大切な感情が欠落してるのか」と不安になったが、世間の様子を見る限り、もっと異常に子どもを愛する人もいれば、もっと執拗に子どもを憎む人もいるようなので、まあそんなものかなと安堵したりもした。
ただ、当時自分の子どもになにかを感じられなかったのは、まだ他に刺激があったからだ。
20歳にもならないうちだったから、異性への興味も強かったし、お金も欲しかったし、お腹も空くし、ゲームも楽しかったし、まだまだ学生気分で、世の中には目新しいものが溢れていた。
子育てに没頭できなかった。だからこそ、いま、ある程度の人生経験を経た今だから、もういちど子どもがいる世界を覗いてみたい。
もちろん、子どもの人生は子どものもの。自分を重ねたり、自分を押しつけたりはしない。親の暇つぶしに産んでもらいたくはないだろうし。
身勝手なのは重々分かっているが、子育ての中にある恩恵・副産物としていくつか挙げられたなかで、自分には「人生の追体験」が最も魅力的だというだけの話。
繰り返しだが「そんな理由で子どもを創るな」「いちどダメだったのにやめろ」「親になる資格無し」というのはわかる。けれど、資格をとってから子作りをする人だけだったら、世界はとうに滅びているだろう。
「できちゃった婚」なんていう言葉があるように、行きずりでも計画的でも、産まれてからだ。その後の人生に保証なんてない。人でなしだから、創った子どもの人生も保証する気はない。
清く正しく作成された子どもが幸せとは限らないし、身勝手に抱き上げられた子が不幸になるとも限らない。
結果がどうであれ親として責務は全うするが、最初の理由なんて「幼少期の追体験が魅力的」でいいかなと思う。
大事なのは付き合い始めた理由より、付き合ってからなのだから。
だからやっぱり、自分が世界に絶望しないように、子どもはほしいと思う。
最高の暇つぶしとして、愛していきたい。