「残るもの」が嫌いだ。
手紙や写真なんかの形在るものはもちろん、香りや曲、想い出や誰かの言葉だって。
なぜならそれらは、全て変わっていくから。
手紙に載せた想いは風化していくし、写真は年月を感じてしまう。
香りや曲にだって想いは宿っている。
匂いで思い出す人はいるけれど、きっと今逢えばその香りも「こんなだったかな?」と感じる。
当時聴いていた曲に感じるモラトリアムは、今聴いても味わえない。
「美味しかったから」という理由で駄菓子を買っても、少年時代ほどは美味しく感じないように。
ゼリ→の6/8という曲の中にこんな歌詞がある。
「どれだけ願っても、どれだけ祈っても、時間は過ぎてしまう。変わっていくものも、変わらないものも、今はまだ、すべてが許せない」
すり切れるまで何度も聴いたものだが、この感覚への共感だけだ。今もなお、変わっていないのは。
自分だって変わっていく。
香りについて話をしたけれど、相手の匂いは一切変わっていなくても、やはり「あれ?」となるだろう。
それは紛れもなく自分が変わってしまったからであって、相手の落ち度は一切ない。
「変わっていくこと」に悪者なんていない。しかしそれでも、僕は「変わっていくこと」がまだ許せなく、虚しさの虜になる夜がある。
だけど、変わらないことを望んでいるワケじゃない。
固執を願っているつもりは断じてないのだ。
ただ、世の中の全ては変わっていくという、その事実がとてつもなく切ない。変わっていくからこそ、尊いし、懐かしいし、嬉しくもある。
変化のない人生なんて、これまたやっぱりごめんだ。
それでも、変わっていくものを受け入れるのは、怖い。
真っ先に「約束された終わり」を想像してしまう。
ここがピークだと先に悲観してしまう。
終わるくらいなら始めたくないと思ったこともあった。
でも同じくらい、終わることが救いだったこともある。
変化があるから人は成長するし、変化するからこそ今を大事に、なんて言うつもりはない。
けど、変化するから生きているし、未来を見ることができるのだろう。
変わってしまうもの。
それは憎しみと愛しさと、虚しさをブレンドした紅茶のようで。
ただ、性懲りもなく味わっている。